天邪鬼の目

ラノベ、アニメ、美少女ゲームの感想、または備忘録的な雑文を記す場所

梅雨の日

雨が…

私の心の中に
雨が降る…


 梅雨が目前に迫ってきている五月の下旬。都内では、今年初の真夏日が観測された。
 街の人々は強烈な日差しと熱波にあえぎ、日傘やハンカチが手放せないでいる。
 この日、美城プロダクションの敷地内にあるカフェテリアでは、新たに夏用のメニューが投入され、大いににぎわっていた。
 新田美波鷺沢文香、橘ありす、相葉夕美高森藍子の五人は、新ユニット”アインフェリア”のメンバーとして、新曲リリース後の初のライブに臨むため、ダンスのブラッシュアップを重ねている最中だ。そのレッスン後に、彼女たちはこのカフェを訪れていた。
「うわ、すごい。人でいっぱいですね。座れる場所あるかな」
「……慌てなくてもいいですよ、ありすちゃん。落ち着いて探してください」
「おーい、ありすちゃん、文香さん、こっちこっち」
 呼び声の方を向くと、美波が大きな傘の付いた、全員が座れるテラス席を見つけてくれていた。
「はーい、すぐに行きます」
 ありすは美波たちに声をかけて「さ、文香さん」と文香の手を差し出して歩き出した。
 文香は「はい、ありすちゃん」と手を握る。どちらの手も、レッスン後の興奮が冷めないまま、熱を放っていた。
「わあ、ありすちゃんと文香さん、相変わらず仲良く百合の花を咲かせてるねっ!」
 夕美がとろけそうなほど優し気な顔をする。
「そ、そんな、ゆ、百合って……そういうのじゃありませんよ!」
「ふふふ、顔が赤くなっちゃってますよ?」
「藍子さんまで……からかわないでください!」
 ありすは、文香と繋いでいる手とは逆の手を振り回して否定する。文香は彼女らのやりとりに、手を口元に当てて微笑んでいる。
「さあさ、夕美ちゃんと藍子ちゃん、からかってばかりいないで。ありすちゃんと文香さんを座らせてあげて」
「あ、すみませーん。なぜか二人を見ているとつい」
「どうぞ、こっちに座ってください」
 夕美は手を合わせて舌を出しながら謝る。藍子は二人のために空いている席を引いた。
「ありがとうございます。……さあ、ありすちゃん、座りましょう」
「ふう、そうですね」
 ようやく手を放した二人は、各々席に座った。
「メニューは何にしようか」
 美波はテーブルの中心にメニューを広げる。
「わ、私は今日からの新作メニューにしますっ」
 ありすは「ハイ」と手を挙げ、いち早くメニューの一つを指を差した。
 それはイチゴの果実とソースがふんだんに使われた、フラッペとカプチーノがミックスされたようなドリンクだった。大きくメニューの一番目立つ位置に陣取り、新メニューとしての存在感をアピールしている。凍った状態から、半分ほど溶けかかった赤いイチゴのフルーティな雰囲気と、真っ白いホイップクリームとが合わさり、清涼感をみなぎらせている。
「ありすちゃんは、このメニューが発売されることをとても待ち遠しく思っていましたね……」
「ああ、イチゴだから、だね」
 美波は手を合わせて微笑んだ。
「ありすちゃんのおススメかあ。私もそれにしようっと」
「なら、私もそれにします」
「文香さんは、どれにする?」
「私も……ありすちゃんと同じメニューにします」
 みんな同じメニューだね、と微笑むと、美波はウェイトレスを呼んで、五人分のメニューをオーダーした。
 ウェイトレスの女性は、溌剌とした顔を浮かべ、元気にオーダーを確認して去って行った。小柄な見た目ながらも、この暑さの中でも、笑顔や姿勢をまったく崩さずに接客を続けている。五人はひそかに、こんな大人になろうと決心した。

☆    ☆

「こんなに暑くて日差しもキツいけど、まだ梅雨入り前なんですよねえ」
「太陽が元気いっぱいなのは良いことだけど、このままじゃお花もしおれちゃいそうだよお」
 夕美と藍子は、額に手をかざしながら、照り付ける太陽を見上げる。
「外気温は既に三十度を超えているようですよ。あ、でも予報では、もう直に、梅雨入りするみたいですね」
 ありすはタブレットを操作しながら言う。
「ありすちゃん、そのタブレット、持ってて熱くない?」
「そ、そんなことありませんよ?」
 文香はそっとありすの持っているタブレットの背面に触れた。その拍子に、ありすの手の甲にも触れる形となり、ありすの手は小さく震えた。
「これは仕舞っておきましょう。……さあ、こちらを向いてください」
 ありすは美波と文香の助言通り、タブレットを仕舞い、隣の席の文香の方を向いた。すると、微かだが、そよ風が吹いてきた。文香が扇を広げて扇いでくれているのだ。
「ああ、文香さん、とっても、涼しいです……」
 ありすは、猫のように目を細めて、文香が送ってくれる風を、受け入れている。
「ありすちゃんはすっかり文香さんに手懐けられちゃってるね」
「へへへ、私はもう文香さんのものです……」
「私、こん即落ちありすちゃんを見るのは初めてです」
「即落ちとな……?」
「ふふ、ありすちゃんは文香さん相手なら何でもしちゃうものね~」
 美波がいたずらな心を含ませて言う。「そんなことはないですよぉ」と反論しつつも、ありすはすっかり文香が送る、そよ風の虜になってしまっていた。
 そのうちに、ありすはいきなり目をパチっと大きく瞬かせると、文香さん、交代しましょうと文香が反応する前に、扇をひょいと取り上げ、同じように文香に風を送り始めた。その様子に、今度は文香が目を細めた。
「…ありすちゃん、ありがとう」
「いえいえ……」
 そんな二人の様子に、他の三人は苦笑いしながら、呆れて肩をすくめるだけだった。
 そうしているうちに、注文したドリンクが運ばれてきた。冷たいカプチーノをベースに、凍ったイチゴとホイップクリーム、イチゴソースなどが盛られ、彩られている。てっぺんにはミントが飾られている。写真の通り清涼感たっぷりだ。
「わあ、綺麗……。イチゴも大きくて、真っ赤ですよ! ささ、みなさん、いただきましょう」
 ありすは目を輝かせて、ストローを口にくわえた。小さく口をすぼめている姿は、小型の愛玩動物を思わせる。頬に手を当てて幸せそうにしている光景に、年長四人も、自然と相好を崩すのだった。

 五人はしばらくの間、厳しい日差しを遮る大きな傘の下で、お洒落なドリンクを片手に、趣味のこと、レッスンのこと、日常生活のこと、たくさんの他愛のないおしゃべりをして、涼を楽しんでいた。
 ひとしきりおしゃべりを楽しんだところで、文香はふと、辺りが暗くなっていることに気が付き、傘の向こうにある空を見上げた。
「……あら、これは、ひと雨来そうですね」
 四人も揃って空を見上げる。
「本当ですね。さっきまであんなに青々としていたのに、雲がモクモクと覆ってきていますよ」
 確実な雨の予感。暗雲が立ち込め始めたのを契機に、回りの人々も段々散り散りになっていく。
「風も出てきたから、これはいよいよ降ってきちゃうね。みんな、寒くない?」
「私は、少し肌寒くなってきましたね」
 夕美は、肩からむき出しになっている腕をさすり始めた。
「私たちもビルの中へ入っちゃおっか。どこか、座れる場所を見つけておいてくれるかな?」
 美波はそう告げると、会計表を持ちレジへ向かって行った。
「……私たちは、先に中に入ってしまいましょう。お金はそれぞれ、後で美波さんに返してあげてください……」
 文香の後を、ありす、藍子、夕美は着いて行く。四人はビルのホールにある談話スペースを見つけると、腰を落ち着けた。
 すぐに、会計を終わらせた美波も追いついてきた。すぐさま椅子を美波の元に持って行くありす。美波はありすの頭を撫でた。
「ありがとう、ありすちゃん!」
「と、とんでもないです」
 ありすは頬を紅潮させながら、文香の隣の椅子に戻って行く。
「あ、ポツンと雨粒が降ってきましたよ」
 藍子が雨粒が当たった窓を指さした。
「いよいよ降り始めてきたねー」
 夕美はテーブルに肘をつきながら窓の外を見つめている。
「最近はずっと晴れの日が続いていたから、植物にとっては恵みの雨になるね」
「ふふ、夕美さんらしい考えですね」
「うん、お外で活動しにくくなるのは残念だけど、お花たちが綺麗に咲くことにつながるって考えると、とっても素敵だなって思うよ」
 夕美と藍子の会話は、雨が降っていても弾んでいるようだ。
 ありすも、同じように雨脚が早まってきた空をながめている。しかし、その顔は夕美たちとは異なり、物憂げな顔を浮かばせている。文香は、そんなありすの様子に気が付き、声をかけた。
「ありすちゃん……どうかしましたか?」
「いえ、どうかしたっていうわけではないんですけど……」
「……私が言うのもおかしいのでしょうが、暗い面立ちになっていますよ」
「うーん、なんででしょうね。本当にさっきまでは、なんとも感じていなかったんですけど、不思議ですね」
 ありすは、えへへと苦笑いをうかべると、また窓の方を向いてしまう。彼女のチャームポイントである髪を留める大きなリボンも、どことなく縮こまって見える。
「……そうです、ありすちゃん。明日の予定は私と同じ、レッスンだけですよね? 良かったら……今夜は私の家に来ませんか?」
「ふぇっ!?」
 文香の突然の申し出に、ありすを含め、それを聞いていた三人の動きが完全に止まった。ありすのリボンだけが、静止が効かずに伸び上がった。
「えっと……すみません、もう一度言ってもらえますか?」
「……今夜、私の家に来ませんか……と。つまりお泊りのお誘いなのですが、あの……ご迷惑でしょうか?」
「い、いえっ、迷惑だなんてそんなこと絶対に思いません! む、むしろ光栄です!!」
「そうですか……。なら、良かったです。ご両親には、私の方からご連絡させていただきますね……」
「それには及びません! それくらい、自分で出来ますから」
 ありすは、慌てたまま、スマホを取り出して、仕事中であろう両親へメッセージを送った。夜にまた電話で連絡すれば良いだろう。
 突然の文香の提案とそれに応じるありすの様子を、美波と夕美と藍子は固唾をのんで見守っている。彼女らは完全に客席にいる観客の様相を呈している。
 数分後、ありすは両親にメッセージを送り終え、顔を上げた。
「連絡はしました。また後で電話連絡をするつもりなので、大丈夫です」
「そうですか。ご心配をおかけしてはいけませんので、そのときは、私もご連絡させてくださいね」
 文香は、しっとりと微笑んだ。
「文香さん、今日はすごく大胆だね。一体どうしたの?」
 美波が代表して質問をする。
「……いえ、なんとなく、今日はありすちゃんと一緒の夜を過ごしたいなと、思いまして……」
 小さいながらも、良く通った声だった。
ありすは先ほど食べたイチゴよりも顔を真っ赤にさせた。夕美と藍子は互いの手を握り合って、黄色い声を上げている。美波も、仄かに顔を赤らめている。
「うわー、そうなんだ! うん、二人はとっても仲良しだもんね!」
「ええ、そうなんです……」
 キャーと声を抑えた嬌声が響く。ありすはどんな顔をしたら良いのかわからなくなり、只々大きな目を見開かせて、蒸気が噴出するかと思われるほどに、顔を赤くさせている。
「さあ、ありすたちゃん……雨が本降りにならないうちに、着替えなどの買い物を済ませてしまいましょうか」
「は、はい!」
「ありすちゃんは、今日傘を持ってきていますか?」
「あ、いえ、できるだけに荷物を減らしたいと思って、持ってきませんでした……」
「そうですか。なら、一緒に私の傘に入って行きましょう」
「ふぁ……ありがとうございます」
「ふふふ、さあ、行きましょうか。……みなさん、今日もお疲れさまでした。明日もまた、よろしくお願いします」
 文香は、三人に頭を下げると、バッグから折り畳み傘を取り出し、立ち上がった。
 慌ててありすも立ち上がり、ペコリとお辞儀をする。
 二人はゆっくりとビルの外に歩き出して行った。
 残された三人はその後、今まであったことについて、あれやこれやと妄想力たくましい会話に華を咲かせ続けることになった。

☆     ☆

 一通りの買い物を終えたありすと文香は、そのまま文香の自宅まで向かった。荷物はありすが持つと言って聞かなかった。なので、傘は文香が差すこととなり、ありすは両手いっぱいに荷物を抱えることになった。
 二人が家に着く頃には、雨の影響で外はすっかり暗くなってしまっていた。
「……お疲れさまです、ありすちゃん。疲れたでしょう」
「いえ、そんなことはありません。なんてことないですよ」
「そう、ですか。でも、雨に体温を奪われてしまっているでしょう。冷たいものも飲んだ後でしたし……。早いうちに、お風呂に入ってしまいましょう。タイマーはセットしてあったので、もう、お湯は貼られているはずです。」
「あ、それなら、文香さんからどうぞ……」
「いえ、せっかくなので……一緒に入りましょう。広さは十分あるはずですから」
「ふえっ!? そそそ、そんなそんなそんな……いやいやいや」
 ついにありすはパニック状態に陥ってしまった。
 日頃からお世話になっているとはいえ、自宅に上がらせてもらって、いきなりお風呂なんて早すぎるっ。どうしてそうなった。
 そう、訴えたかったが、言葉にならず、手はせわしなく動かすだけで……。ついに目を回してしまった。
「……ありすちゃん、落ち着いてください。変なことは何もしませんから」
「へ、変なことっ!?」
 ついに沸騰してしまったありすの頭は、”変なこと”で支配されてしまい、身体が崩れ落ちてしまった。
「……余計なことを言ってしまったみたいですね。……こうなったら」
文香は、手早く荷物をリビングに置いてくると、先ほど購入してきたありすの着替えと自分の分を取ってきた。そして、着替えをありすに持たせ、余計な勢いを感じさせない絶妙な力加減でお姫様抱っこをするように、両腕でありすの首元と両ひざを持ち上げた。
「ふぁ、はわわわわ、ふ、文香さん、にゃ、何をするんですか!」
「ありすちゃんを、お風呂まで、抱っこして行くのです」
「私、重くないですか……?」
「そんなことはありませんよ。とっても軽くて柔らかい……まるで天使のようです」
 天使のようとまで言われてしまい、ありすは恥ずかしさのあまり、お腹の上の着替えに顔をうずめた。着替えからは、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。優しい匂いだった。
「良い匂い……」
 ありすは、顔を上げずにつぶやく。
「え?」
「文香さんの着替え、とっても良い匂いがします」
「そう……ですか。悪い気持ちは、しませんね」
 淡々としているようで、文香の声からは微笑が含まれていることがわかる。
 匂いのおかげで、だいぶ落ち着きを取り戻せた。
 洗面所に着くと、文香はありすを下ろして、棚から二枚バスタオルを取り出してきた。
「……はい、片方はありすちゃんの分です」
「ありがとうございます」

 二人は服を脱いで浴室に入った。バスタブには、確かにもうお湯が張られていた。室内全体が、まるで熱帯のように湿気を帯びている。
「今日は、久しぶりに、この入浴剤を入れてみましょうか」
 文香は、一つの入浴剤をお湯に入れた。浴槽に入れた瞬間、お湯は白く染まり、浴室全体が甘い、ミルキーな匂いに包まれた。
「ふわぁ……優しい匂いですね」
「お風呂で本を読むときに、よく使っていた入浴剤なのですが……気に入ってくれたのなら、良かったです」
「そうなんですか。私も同じのを使ってみたいです。良かったら、商品名を教えていただけませんか?」
「はい、後で入れる前のものを、お見せします。たくさん持っているので一つくらい、持って帰ってください」
「良いんですか? ありがとうございます」
 ありすは嬉しそうに、顔をほころばせた。
「ありすちゃん、せっかく一緒のお風呂に入っているのですから、身体の流し合いをしませんか……?」
「ふえっ!? そそそ、そんなことまで……。いえ、か、身体くらい一人で洗えますよ!」
「そんなことを言わずに……裸の付き合い、というものも、悪いものではないと聞いたことがります。さあ、こちらに背中を向けてください……」
「うぅ……、今日の文香さんはすごく、積極的です。一体、どうしたんですか?」
「いえ……ただの私の気まぐれです。私のわがままに、付き合ってはくれないでしょうか……?」
「そう、なんですか。じゃあ、よろしくお願いします」
 そこまで言われては断る理由もない。ありすはバスチェアに腰かけ、文香にその華奢な背中を預けた
「……こちらこそ、よろしくお願いします。まずは頭から洗いましょう。痛くならないよう、努力しますが、痛いようでしたら、いつでも言ってください」
「……はい」
「……シャンプーハットのようなものは持っていないのですが、大丈夫でしょうか?」
「もうっ、子供扱いしないでください! そんなこと言うなんて、文香さんらしくないですよ!」
「ふふっ、ごめんなさい。どうにも、裸になってしまうと、いつもの自分とは別の思考が働いてしまうようでして、いけませんね……」
「文香さんにも、そういう一面があるんですね」
 手櫛で髪を梳かれている最中、ありすは、子供扱いされたことよりも、文香の意外な一面を垣間見ることができたことに驚いていた。
「……さあ、お湯をかけますね」
 風呂桶から数回、頭にお湯が注がれた。
 身体全体が、暖かいお湯のおかげでほぐれてゆく。お湯が身体を流れるたびに、入浴剤の香りが鼻をくすぐる。
 文香の手がありすの髪の中に差し込まれる。頭のてっぺんから、ゆっくりと毛先の方に揉まれ、シャンプーがなじんでゆく。
 上から下へと、撫でるような手の動きは、決して強くないのに、引き込まれる。頭が自然と文香の胸へと、倒れ掛かってしまいそうだ。
「お加減は、いかがですか?」
「はい、とても良い気持ちです……」
「頭皮を、揉み洗いしていきますね」
 そう言うと、文香の手は、ありすのうなじから頭頂部にかけて、優しく、揉みほぐすように伝って行った。
 指の動き一本一本が、余韻として頭の中に浸透してゆく。今度は、身体全体が天へと突き上げられてゆくようだ。
 ありすの頭はもう、文香の手の支配下に置かれてしまっていた。
 シャンプーの泡が、今度はシャワーによってすすがれる。
 泡が毛先から落ちてゆく感覚の気持ち良さに、ありすは髪ごと洗い落されてしまっているのではないか、という不安さえ抱いた。
「……トリートメントをつけますね」
「はいぃ……」
 ありすのろれつはもはや回っていない。泡とともに思考も流れ出てしまったようだ。
 再度、文香の手は、ありすの髪の根元から毛先へと、梳くように撫でる。
 その折れてしまいそうな細い指は、ありすの深く、深くまで入り込んでいった。
「前の方は、自分で、お願いしますね」
「ふえぇ……え?」
 瞬きをすると、ありすは自分の手の上に、一つのスポンジが置かれていることに気付いた。
 いつの間にか、トリートメントも綺麗に洗い流されていたようだ。思考も次第に形を成して戻ってくる。
「さすがに、身体の前面も、私が洗うわけにはいきませんから……」
「は、はいっ。そうですよね」
 振り向いた文香の顔には、照れ臭そうな顔が浮かんでいた。
 その様子に、ありすは顔を真っ赤にして勢い良く身体を正面に向ける。文香のスタイルの良い身体が目に焼き付いてしまい、身体を掻き抱くように丸める。
 背後からは、ボディソープとスポンジがこすれる音がする。ありすもスポンジに石鹸をしみこませて、泡を立てる。
 文香のスポンジが、そっと背中に触れた。
 その感触のこそばゆさに、ありすの背筋は台座を押された脱力人形のように伸び、鈴虫のごとく身体を一瞬震わせた。
「……くすぐったいですか?」
「……少し」
「すぐに、なれると思うので、少々我慢してください」
 文香は、そのままありすの背中を洗い続ける。
「……ありすちゃんの背中は、とてもかわいらしいです」
「でも、早く大きくなって、文香さんのような立派な身体になりたいです」
「まだまだ成長途中のその背中を、精いっぱい背伸びして、頑張る姿は、とても立派です。私にとっては、すごく大きな背中に見えてなりません。……ありすちゃんも、同年代の子たちの姿を見て、そう思うことはありませんか?」
「そう、ですね」
 確かに、自分が尊敬し、輝いているアイドルたちは皆、背が大きく見える。個性的だとは思うけど、それぞれが自分の持ち味を引き出していて、素敵だな。と今のありすには思えた。
 どんな天気の日でも、予期せぬトラブルが起こったときでも、彼女たちの輝きは鈍らない。いや、そう見せないだけの努力があるのだろう。
「……この背中には、はち切れんばかりの力が秘められています。音楽だけではなく、ありすちゃん自身にも、人を変えられるほどの力が、あるのですよ」
「そうだと良いんですけど」
 一通り身体を洗うと、お湯を肩からかけられた。
 雨でこびりついた、不思議なモヤモヤとした感情が、泡と一緒に、排水溝の向こうへと、流されて行った。
「……さあ、今度はありすちゃんが、お願いします」
「はい」
 ありすはスポンジを受け取り、バスチェアから立ち上がった。今度はそこに文香が座る。
 文香と同じ手順で頭のてっぺんからつま先まで洗われてゆく。
 文香の陶磁のような背中は、ありす同様、華奢ではあるが、彼女のものよりもずっと広い。そして、女性らしい豊かな丸みと柔らかさを備えている。今のありすにはまだないものだ。
「文香さんの身体、とても綺麗です」
「……ありがとうございます。ありすちゃんのお肌も、キメ細かくて、まるで卵のようでした」
「そうですか? ……えへへ、ありがとうございます」
 いつの間にか、スポンジはありすの手から離れ、床に落ちていた。
 ボディソープの付いた手が、文香の首から腰まで順繰りと撫でてゆく。
 石鹸のぬめりによって、驚くほどなめらかに指が滑る。
 この肌にずっと触れていたい、もっと触っていたい、という感情が胸の内からあふれてくる。
 この肌に、頬をすり寄せていられたなら――
 顔が肩甲骨のあたりに吸い寄せられてゆく。
 そして自然と、いつしか、二本の腕が、文香の背中下から、へそ回りへと、伸びていった。
「――ありすちゃん、お話しがあるのですけど、よろしいでしょうか?」
「ひゃっ、ハイ!」
 文香の顔は前方を向いたままだ。
 ありすのは、文香の言葉に跳ね返されるように、一気に身体を引き離した。
「……言うか、言わないか、ずっと悩んでいたのですけど、決めました」
 文香の声には先ほどとは打って変わって、緊張が含まれている。ありすは敏感にそれを感じ取った。
 何かよからぬことが文香の口から発せられる。一瞬にして身体の隅から理解できてしまう。口の中の水分が奥に引っ込み、乾いてしまった。
 数舜の間、換気扇のまわる音だけが、その場を支配した。 
「何を、ですか?」
 唇を湿らせ、おそるおそる、次の言葉を促す。
「……私、アイドル活動を休止して、子供を産む予定なのです……」
「え」
 ありすの視界が反転し、時間が停止した。
「……次のライブが終わったら、公に発表されることになっています。いずれ、他のみなさんにも情報が行き渡ることになると思われます」
「そんな、何でいきなり……」
 なんとか言葉をひねり出す。
「私の一番大切な、ありすちゃんにだけは、先にお伝えしたいと思って……」
 文香は、既に言うことを決めているようだった。滔々と、ゆっくりと、ありすの顔を見ないまま、言葉が紡がれてゆく。
「……お相手は、私たちのプロデューサーさんです。出会って、スカウトしていただいて、プロデュースしていただいて……。いつしか互いに惹かれ合って、お付き合いをして、愛し合いました。近々入籍をする予定です。……もう、このお腹には赤ちゃんもいます」
 文香はそこで言葉を区切った。
「そう、なんですか……」
 あまりに衝撃的な告白の連続に、ありすは、相づちを打つことしかできない。
「……みなさんと、ありすちゃんともっと活動を共にしてゆきたい気持ちは、心の底からあるのですが、もう決めました」
 文香の声からは、静かだが、確固たる意志を感じる。初めてユニットとしてステージに立ったときとは、まったく比べ物にならない。
 きっと、ありすの知らないところでも、彼女はさまざまな経験を積んで、大人になっていったのだろう。
 聡く、センスの良いありすには、そのことを想像するのは、たやすいことだった。
「はなはだ傲慢なことであると、自覚をしてはいるのですが……ライブ前に、ありすちゃんを動揺させてしまうのではないかと思うと、心が苦しくて……。プロデューサーさんに相談したのですが、自分で決めた方が良い、と。そうして、今決心したのです」
「…………」
 湯気が風呂場いっぱいに立ち込める中、ありすは言葉を発することができない。
「まだ、お腹の大きさは目立たないのですが、お腹では、もう赤ちゃんが活動しているようです。……ありすちゃんも、触ってみては、くれませんか?」
 そこで、初めて文香は振り返り、ありすの顔を見上げた。顔は上気し、目は潤んで、輝いている。
「…………」
「ありすちゃんに、ぜひ触れてほしいです」
 ありすは、膝立ちをして、震えながら文香のお腹に手を当てる。
「……………」
「私のお腹に、顔を当ててみてください」
 言われるままに、身をかがめて顔を近づける。
 ヒビの入ったガラスに触れるように、そっと、耳を文香のお腹に当てる。
 支えるようにして、文香の片手が、ありすの頭を下からすくい上げる。もう片方の手が、位置を安定させるために、顎を固定した。そうして、包み込むように、顔にお腹が押し当てられる。
「…………」
 一滴、文香の髪の毛から降ってきた水滴が、頬に当たった。
「――あ、動いた……」
「わかりましたか?」
「また、動きました」
「これが、赤ちゃんの動きです」
「これが、そうなんですか……」
 ありすにとって、初めての感覚だった。
「これが、赤ちゃんの動きなんですね」
 動く。動いている。
「私にも、赤ちゃんの鼓動が、わかります」
「……それは、私にとって、とても喜ばしいことです」
「まだ、このまま感じていたいです」
「ええ、もちろんです。湯冷めには気を付けてください」
 文香の体温を感じる。その奥に、新たな生命の胎動を感じる。
 過ぎ去ってゆく想い、到来する新たな想い。それが、慈愛の心だということに、ありすが理解するのは、まだしばらくの時間を必要とする。
 目まぐるしく切り替わってゆく感情の奔流に身を任せ、ありすは目を閉じた。
「文香さん、お母さんになるんですね」
「ええ」
「また、これからも触らせてもらって、良いですか?」
「もちろんです」
「赤ちゃんが生まれたら、見に行っても良いですか?」
「歓迎します」
「抱っこしたり、写真を撮ったり、一緒に遊んだりしても良いですか?」
「いつでも、会いにきてください」
「また、一緒に歌って、踊ってください……」
「……それは、約束はできません」
 わかっていること。それでも、言わずにはいられなかった。
 握りしめた手に力がこもる。
「どうして……ですか?」
「現実的な話をすると……私やありすちゃんの気持ちだけで、世の中が決まるわけではありません。あらゆる環境、条件、それらの歯車が、ピタリと一致したときに、叶うものなのです」
「私は、文香さんと一緒に歌いたいんです!」
「それは、私もですっ……!」
 ありすの頭を支えていた両手が大きく動き、彼女の脇に差し込まれる。そのまま腕力の力だけで身体が持ち上げられ、胸元まで引き寄せられた。
 豊かな胸がありすの顔に押し当てられる。
 文香の顔もまた、ありすの小さな肩にうずめられる。
「私も、まだまだありすちゃんと一緒に歌って、踊っていたいです。でも、私は選ばなくてはいけない。同時に、すべてを抱えたままではいられない。そういう現実があります。私も、もっともっとありすちゃんと一緒にいたい……っ!」
 それは、普段の知的な彼女からは発せられない、生の感情の叫びだった。
 身震いすると、文香は身体を引いてありすと向き合った。先ほどから変わらず、目は潤んでいる、今にも涙が零れ落ちそうになっている。しかし、口調ははっきりとしたものだった。
「……ありすちゃんは一人じゃありません。もちろん、私も……。私たちには同じ仲間、ファンのみなさんがいます。私たちは、二人で一人の存在などではなく、個人同士。良い意味でも、悪い意味でも……。お互いを引き寄せることも、離れなければいけないときも、あるのです」
「文香さん……」
 そうして、文香は首をほんの少し傾けて、微笑んだ。目を閉じた瞬間に落ちたしずくは、涙だったのか。それとも、目にかかりがちな髪に残っている水滴だったのか。ありすには判断することができなかった。
 ありすは、長い長い文香の告白を聞き終えると、彼女の首に腕を回した。文香もありすの身体に両腕をまわした。
 二人は長い間抱き合っていた。片方が一回くしゃみをして、湯船に浸かろうと提案するまで、そうしていた。

☆    ☆

 数週間後、アインフェリアのライブは見事成功に終わった。
 その数日後、鷺沢文香の結婚、妊娠、そして芸能活動の休止が事務所から発表された。ファンはもちろんのこと、周りのアイドルたちも大層驚いていた様子だったが、皆、暖かくその報告を祝福した。
 文香が出勤する最後の日、会社では文香を送り出すささやかなパーティが行われた。
 ありすは皆の代表として、餞別に花束を贈った。文香は、いつもの落ち着いた笑みを浮かべて、礼を言った。
 そうして文香は、降りしきる雨の中を、婚約者であるプロデューサーに付き添われて、美城プロのビルを後にした。
 ありすは小さくなってゆくその後ろ姿を、いつまでも見つめていた。



「――ありすちゃん、大丈夫?」
「……美波さん」
「文香さん、行っちゃったね」
「また、戻ってきてくれますよ」
「そうだね。そう、言ってたものね」
「……雨、やんでくれませんね」
「まだ、梅雨だもの」
「いつまで降り続けるのかなあ」
「ありすちゃん……」

雨が…

私の心の中に
雨が降る…

おわり



あとがき
補足ですが、最初と最後の"雨が…~"の部分は『エクゾスカル零』7巻、御菩薩木紡のセリフのパロディです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!